内外情勢調査会盛岡支部懇談会における知事講演 「岩手県の国際関係ー歴史と今ー」
とき:令和6年1月29日(月曜日)
ところ:ホテルロイヤル盛岡
はじめに
本日は、内外情勢調査会盛岡支部懇談会で講演の機会をいただき、誠にありがとうございます。
今般の令和6年能登半島地震で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。
県では「岩手県応援本部」を設置し、被災地へ職員派遣を行っています。今後、岩手県は関係方面と連絡・調整し、県民の皆さんと情報共有しながら、救助、避難、復旧、復興とステージに応じた支援を行っていきます。
一昨年、新型コロナウイルス感染症の水際対策が解除され、花巻-台北国際定期便の運航再開や中国・雲南省からの青少年訪問団との交流再開など、岩手県においても国境を越えた人の移動が再開し、活発になっています。
昨年1月には、盛岡市がニューヨーク・タイムズ紙の「2023年に行くべき52か所」に選ばれ、国内外から盛岡を訪れる人が増えています。
今、県政150周年記念期間中でもありますので、「岩手県の国際関係-歴史と今-」というテーマで、岩手県の国際関係の歴史をたどりたいと思います。
本日の内容ですけれども、まず、岩手県の国際関係の現状を幾つかの統計とトピックで紹介します。次に、岩手県の国際関係を大きく変えた東日本大震災津波を振り返ります。第3に幕末・明治以降の近代における岩手の国際化の歴史をたどります。
最後に、今後の岩手の国際化の目指す方向性を世界とつながる地方創生というテーマでお話します。
1 岩手県の現在
《統計からみる岩手県の国際関係》
まずは岩手県の現在です。
岩手県の外国人延べ宿泊者数の推移を見ますと、コロナ禍前までは急速に増加し続け、コロナ禍前の2019年(令和元年)は34.4万人となりました。コロナ禍前の2019年(令和元年)の都道府県別外国人延べ宿泊者数を見ますと、岩手県は47都道府県中33番目です。
第二次安倍政権時代、アベノミクスで円安傾向になり、海外から日本への旅行に割安感が生まれ、インバウンド観光が増えていきました。
しかし、お気づきかもしれませんが、東北地方は、もともとインバウンドが少なかったところに、東日本大震災津波があり、一時は東北6県合わせても50万人に満たず、函館市1市と同規模の時期がありました。東北全体で100万人超えを目指し、東日本大震災津波後の国の支援もあり、コロナ禍前には、目標を達成しておりました。2019年の岩手が34.4万人だった年、東北各県もインバウンドを増やし、東北全体で180万人を超えていました。
都道府県別在留外国人数でありますが、岩手県はベトナム、中国、フィリピンの国籍を持つ人たちが多いです。人数は、47都道府県中38位になります。
《幸福度ランキング2022》
日本総合研究所が、都道府県別の幸福度ランキングを公表しており、5分野10領域の指標を総合し、各都道府県の幸福度を算出しています。岩手県は10領域のうち国際の領域にある5つの指標について、2022年度版では「外国人宿泊者数22位」「姉妹都市提携数29位」「語学学校にかける金額36位」「海外渡航者率44位」「留学生数42位」となっています。
目立つのは、「語学学校にかける金額36位」。そして「海外渡航者率44位」「留学生数42位」というところが低い方であり、岩手県は外国人宿泊者数が伸びている割には、県民の海外渡航が少ないというようなことが見えてきます。
《岩手の豊かな国際交流》
ニューヨーク・タイムズ紙が「2023年に行くべき52か所」で盛岡市を選びましたが、盛岡市を推薦、紹介する文章を書いたクレイグ・モドさんは、盛岡の良さとして、街が美しい、食事がおいしい、市民が優しく頑張っている、自然が街に溶け込むさまに晴れやかな気持ちになるなど述べています。
住民が日常的に歩くところ、食べるもの、利用する店、また住民の日常的な姿、これらをまとめて生活文化と言っていいと思いますが、それが外国人にとっても魅力的であるということに気づかせてくれました。
アメリカの写真家・エバレット・ケネディ・ブラウンさんは、岩手県に滞在し、フィルムではなくて薬品を塗ったガラス版に画像造影させるという幕末の写真技法で、岩手の若い郷土芸能の舞い手や若い職人を撮影して、企画展を遠野市や釜石市で開催してくれました。
岩手県の食は様々な形で海外から注目されています。
岩泉町安家には安家地大根という地元だけで栽培されている伝統野菜があります。この大根は、2005年(平成17年)にイタリアに本部をおく「スローフード協会」というところが、未来に残すべき食材として、「日本短角牛(日本短角種)」とともに、「味の箱舟」に登録しました。
2006年(平成18年)には、スローフード協会がガストロノミー、これは食文化とか、美食術とか訳されますが、ガストロノミー専門家養成のためにイタリアに設立した食科学大学の学生たちが岩手県に訪れて安家地大根や短角牛を見学しました。
東日本大震災津波を挟みまして、そのあと2019年(令和元年)にガストロノミーの視点から三陸の魅力や豊かな食材、食文化を国内外に発信する「三陸国際ガストロノミー会議」を開催し、国内及び海外の著名なシェフや専門家が、講演やトークセッションを行い、県産農林水産物を生かした特別メニューを提供しました。また、ホヤやウニ、原木しいたけ、ワインなどの産地視察が県内各地で行われ、「三陸は食の聖地である」という言葉をいただきました。
2 東日本大震災津波
《海外からの支援》
さて、東日本大震災津波を振り返ります。
東日本大震災津波の発災直後、アメリカ、イギリス、中国から救助隊がやってきました。そして、多くの国々から支援物資が届けられ、世界各国地域から義援金や寄付金が寄せられました。
クウェートから岩手県に84億円、元は原油であり、それをお金にして、赤十字において被災県に配付したのですが、岩手県は84億円をクウェートからいただき、三陸鉄道の新車両の購入や島越駅などの駅舎整備に活用されました。2021年(令和3年)に「クウェート国復興支援感謝列車」を運行し、昨年6月にも、駐日クウェート大使が三陸鉄道を訪れて、復興の様子を視察するなど、友好が深まっています。
陸前高田市では、コミュニティホールの整備にシンガポールから7億円の支援を受けました。陸前高田市は、東京2020オリンピック・パラリンピックでシンガポールのホストタウンになり、現在も高校生をシンガポールに派遣するなど交流が行われています。
大槌町の災害公営住宅などが台湾赤十字社の支援によって整備されました。整備された施設には「台湾と日本の人々の絆の証として建設された」と書かれた石碑が置かれています。
山田町にある大沢保育園は、台湾赤十字社やドイツのラインラント・プファルツ州からの支援金などにより、新しい園舎が整備されました。昨年、ラインラント・プファルツ州の首相が岩手に来訪し、大沢保育園を視察しました。
そして、昨年6月に陸前高田市で開催した全国植樹祭では、豊かな森林環境の継承などの機運醸成に加えて、感謝の気持ちを込めて東日本大震災津波からの復旧・復興の姿を国内外に発信しました。植樹祭にクウェート、シンガポール、ドイツ、台湾など復興支援に尽力いただいた国や地域をお招きし、改めて復興への感謝を伝えることができました。
《東日本大震災津波・岩手県復興報告会》
岩手県は、東日本大震災津波・岩手県復興報告会をニューヨーク、台湾、パリで開催しました。復興支援に尽力いただいた皆様に感謝の意を伝え、復興に立ち上がる岩手の姿を発信しました。
各会場では、私から復興状況を紹介し、ニューヨークでは復興支援をいただいたアメリカ在住アーティストの八神純子さん、台湾では大槌町出身の歌手・臼澤みさきさんにミニコンサートをやっていただきました。また、わんこそば、まめぶ汁、地酒などの岩手の食を提供し、食の安心安全をアピールしながら、県産食材をPRしました。
パリでは、県立岩泉高校の生徒による郷土芸能・中野七頭舞が満場の共感を呼び、東日本大震災津波からの復興が、世界的な、人類的な事業でもあることを改めて感じさせてくれました。
復興の過程において生まれる多くのつながり、絆は私たちの大きな財産であると確信いたしました。
パリの復興報告会では、世界的に有名なバイオリニストのイブリー・ギトリスさんにスピーチをしていただきました。
ギトリスさんは平成24年(2012年)3月の県と陸前高田市の合同追悼式で、高田松原の流木で作製したバイオリンで演奏し、復興の絆コンサートなどで、来県をしていただき、多くの県民に癒しと勇気を与えてくれました。
ギトリスさんは令和2年にお亡くなりになりましたが、岩手県ではギトリスさんへの追悼と感謝の意を込めて、令和3年12月にギトリスさんゆかりの演奏家によるコンサートを開催し、令和5年2月には、これまでの交流の記録映像を公開しました。
《復興を契機としたつながり》
東日本大震災津波の経験や教訓を国内外の防災力向上に生かすことは、被災県としての岩手県の役割です。
これまでの経験や教訓を海外に発信する中、様々な交流が生まれました。
2015年(平成27年)に開催された第3回国連防災世界会議の主要な会場であった仙台会場で「防災・復興に関する岩手県からの提言」を世界に発信しました。「防災・復興に関する岩手県からの提言」は国連の正式な記録として保存されています。
また、岩手県においても様々な関連事業を行いました。岩手県では、防災に関する新たな国際規格の発行に係る「ISOセキュリティ専門委員会」を行い、これは岩手県内で行った唯一の国際機関の正式な会議になります。国際機関の正式な会議としては、今のところ後にも先にも、それだけが行われた例となります。
また、文化財の防災に関するシンポジウムも岩手県主催により岩手県内で開催し、世界遺産アラブ地域センター長さんなど、世界視点から見た文化財の防災について講演をいただきました。
仙台を中心にして行われた国連防災世界会議でしたが、参加者の皆さんを対象にスタディツアーが行われ、岩手県の遠野・釜石コースの視察にはミクロネシア連邦の国家元首エマニュエル・モリ大統領も参加されました。モリ大統領は日系の方であり、ミクロネシア連邦の大統領だったのですが、岩手県を外国国家元首が訪問した例は、他にはなかったし、その後もないと思います。
《東日本大震災津波伝承館》
東日本大震災津波伝承館への海外からの来館者が増えています。コロナ禍の影響もあり、これまでは海外からの団体予約数が少なかったのですが、令和5年12月末現在456人となっています。
インドネシアのアチェ津波博物館やアメリカのハワイ太平洋津波博物館の関係者の方々、防災研究の専門家に視察いただいています。
防災・減災に関する学術的交流が始まっており、コロナ禍のもとでも海外の津波博物館と連携し、ウェブセミナー「三陸TSUNAMIウェビナー」を開催し、海外の津波博物館とオンラインで意見交換をしています。
《TOMODACHIイニシアチブ》
東日本大震災津波で被災した日本を支援するために、アメリカ軍がトモダチ作戦、オペレーション・トモダチを展開したことは、皆さん覚えてらっしゃると思います。
災害時、兵士2万4,500人、艦船24隻、航空機189機が投入されました。
その後、TOMODACHIイニシアチブというものが、復興支援として始まり、教育、文化交流、リーダーシップといったプログラムが行われ、日米の次世代リーダーが育成されています。
岩手県の中高生がアメリカでホームステイや企業訪問、地元高校生との交流、イベントでの神楽披露など、様々なプログラムに参加しています。アメリカの少年野球選手が大船渡市を訪問するなどしており、トモダチ・リーダーシッププログラムに参加した岩手県職員もいます。
《姉妹都市~陸前高田市~》
東日本大震災津波で県立高田高校の実習船「かもめ」が流され、2年後にアメリカのデルノーテ郡クレセントシティ市に漂着しました。翌年、デルノーテ高校の生徒の尽力で実習船が陸前高田市に返還され、陸前高田市とクレセントシティ市の交流が始まりました。
2017年(平成29年)には高田高校とデルノーテ高校は姉妹校に、そして2018年(平成30年)には陸前高田市とクレセントシティ市、そしてデルノーテ郡が姉妹都市になりました。
交流は産業分野でも深まり、クレセントシティ市の地ビール会社が友好記念ビールや陸前高田市の塩を使ったチーズを作るなどしています。
今年度、クレセントシティ市の訪問団が陸前高田市を訪れ、実習船かもめ漂着10周年記念のタイルアートを送るなど、交流が続いています。
《姉妹都市~釜石市~》
釜石市はフランスのディーニュ・レ・バン市と姉妹都市でしたが、東日本大震災津波の際の支援によって、友好をさらに深めています。
釜石市とディーニュ・レ・バン市との姉妹都市協定は、1992年(平成4年)に釜石市で開催された三陸・海の博覧会でディーニュ・レ・バン市のアンモナイトの壁のレプリカを展示したことが契機となって結ばれています。
東日本大震災津波の後、釜石市は観光農園の整備を進め、ディーニュ・レ・バン市で栽培が盛んなラベンダーを栽培することとしました。
これはフランスの化粧品ブランド「ロクシタン」と共同で進められています。ロクシタンは創業者がディーニュ・レ・バン市出身で、釜石市の被災したビルや公園の整備への支援やふるさと納税の返礼品への商品提供などを行っています。
ロクシタンというのは、ご存じの方も多いと思いますけれども、世界中の空港の免税店に行くと目立つところにあり、そういうものが好きな人たちの間で最も人気があるブランドの1つと言っていいでしょう。
今年度、ディーニュ・レ・バン市から寄贈されたラベンダーなどを釜石市民やロクシタンの社員ら約150人によって植えるイベントが行われました。
3 近代における岩手の国際化
《岩手の先進性~盛岡藩~》
近代における岩手の国際化ということで、岩手の国際化を幕末・明治の近代の時代にさかのぼって見ていきたいと思います。
それは岩手の意外な先進性の発見でもあります。
1792年、江戸時代でありますが、ロシアのラクスマンが蝦夷地、現在の北海道に来航するという事件がありました。
これに危機を感じた徳川幕府は、松前藩に任せてはいられないということで、蝦夷地を幕府直轄地とし、ロシアに備えるため、東北諸藩に北方警備を命じました。
当時、盛岡藩の領地は青森県下北半島の北端まであり、蝦夷地に一番近い藩でした。このため、真っ先に現地に駐留して警備に当たり、盛岡藩はロシアとの交戦も経験するなど、アメリカのペリー提督の黒船来航よりも、50年前、およそ半世紀前に外交防衛の洗礼を受けていたのでした。
このような盛岡藩の蝦夷地警備の経験から学び、北方警備の重要性を説き、明治維新の50年前となる1818年に私塾を開いて人材育成に取り組んだのが、盛岡藩士の相馬大作でした。相馬大作は、外国の脅威に対して、日本が国としてまとまって力を合わせていかなければならないという問題意識を持ち、岩手からどんどん江戸や、さらに西の方にも奔走し、行動力を示し、この問題意識と行動力は封建的な主従関係を超えて日本全体のために行動するのだという、幕末の志士の時代を切り開くものでした。
《岩手の先進性~仙台藩~》
盛岡藩だけではありません。
岩手県の気仙・東磐井・西磐井・胆沢・江刺は仙台藩に属しており、仙台藩の高野長英は、西洋の学術や文化など非常に先進的な学問を修め、欧米列強の日本近海への進出にも敏感でした。イギリスの国情、海外政策、海軍力などを述べて、攘夷思想・鎖国主義を警告した「夢物語」という書物により幕府に捕らえられますが、高野長英の考え方と志は、日本中の多くの志士たちに引き継がれました。
また、仙台藩を代表する一関市出身の儒学者・大槻磐渓は、西洋砲術を学び、フランスやロシア、アメリカの当時の様子を研究し、本にまとめるなど、西洋の進んだ文明や海軍の脅威について精通しており、開国論を唱えていました。
《新渡戸稲造》
明治以降、日本最初の国際人として多方面で活躍した岩手県人が新渡戸稲造です。
新渡戸稲造は「願わくは、われ太平洋の橋とならん」という言葉で有名です。
新渡戸稲造は、日本人の道徳観や倫理観を英語で世界に伝えた「武士道」の著者であり、第一次大戦後、世界の紛争解決を目指した国際連盟の事務局次長でした。
新渡戸稲造は、入学先が決まっていないのにアメリカに渡り、またアメリカ人女性と国際結婚するなどしており、このような大胆さが、慎重で丁寧な学風とともにあるというところが魅力であります。
《海外における岩手県人の活躍 ~外交官~》
戦前の日本の外交官として、多くの岩手県人が活躍しました。
まず、盛岡藩の家老であった東次郎、移民政策に関する先駆的な提言を行った杉村濬、日露戦争後のポーツマス条約の締結に尽力した高平小五郎の3人がまず挙げられます。
そして、出渕勝次は、軍部の意に背いて、日米関係の改善を貫いた平和外交に尽くした人物で、岩手殖産銀行(現・岩手銀行)の監査役も務めました。
また、原敬も外交官として中国・天津やパリなどに駐在し、外務省通商局長の時代に「外交官及び領事館試験制度」をスタートさせました。原敬は政友会総裁、そして内閣総理大臣になりますが、地方の経済社会を振興して、内需拡大を図り、植民地に頼らなくて済むような経済産業政策を打ち出しました。外交の基本は、欧米諸国と協調し、アジアでの武力行使を控えるという国際協調主義でありました。
《海外における岩手県人の活躍 ~仕事・事業~》
次に仕事や事業で海外に渡り活躍した岩手県人を紹介していきたいと思いますが、まずは後藤新平であります。
後藤新平は、台湾総督府民生長官や南満州鉄道の初代の総裁として海外で活躍しました。「英文東亜案内」という日本人による初の海外向け公式旅行ガイドを出版しています。欧米の旅行者向けに作られたのですが、旅行上必要な情報ばかりではなく、欧米の実業家の資本の投資を促すために、東アジアの産業や貿易についても詳しい調査を行って掲載しています。
そして後藤新平が台湾にいた頃、台湾で活躍していたのが伊能嘉矩という人です。この人を知っている岩手県民はあまりいないかもしれませんが遠野の人です。遠野物語の柳田国男の世界みたいなもので、人類学を専門にしていた人です。
伊能嘉矩は、フィールドワークで台湾の原住民の調査研究を行って、それを取りまとめたものが日本の台湾統治の基礎となりましたし、その後の台湾の人たちによる台湾の行政にも参考にされていて、彼の本「台湾文化志」は国際的に高い評価を受けています。
私が知事として台湾に行った時に、現地ガイドとして付いた台湾の若い人が「ああ、岩手県といえば後藤新平さん、新渡戸稲造さん、伊能嘉矩さんですね。」と3人名前を並べて話していました。
さらに三田定則先生を忘れてはいけません。岩手医科大学の初代学長ですが、台北帝国大学に医学部を創設して初代学部長になっています。翌年、台北帝国大学総長となり、台湾医学の基礎づくりの発展に尽力しました。
新渡戸稲造も台湾総督府糖務局長として台湾近代化に尽力し、台湾で活躍しています。
日本台湾交流協会は台湾に居住する人を対象に「対日世論調査」を行っていて、台湾を除き、最も好きな国上位3か国がどこかというと、1位が日本になっておりまして、一番最近の2021年の調査で過去最高の60%になっています。
日本統治時代の台湾は、現地台湾人の抵抗で犠牲者を出すような負の歴史もありますので、日本統治が全て良かったというわけではなく、今も日本統治時代に対して日本を良く思わない人たちもいるのですけれども、一方、後藤新平、伊能嘉矩、三田定則、新渡戸稲造など、台湾の近代化に尽力した岩手県の先人の活躍が現在の日本と台湾の良好な関係に影響しているということは言えるのではないでしょうか。
ここからはあまり知られていない海外で活躍した岩手県人や、また知られている人物だけれども、あまり知られていないその人の海外での活躍というものを紹介したいと思います。
まず、盛岡市出身の伊吹山徳治という人。これはなかなか知っている人はいないと思うのですけれども、戦前の日本郵船の上海支店長だった人です。
そして、上海の日本人居留民団の団長を務めるほか、上海共同租界の参事会員でした。租界というのは、例えば香港とかマカオみたいな外国が統治している半植民地のようなもので、上海の租界は、まずフランス租界というフランスが単独で統治している租界と共同租界の2つに分かれていて、上海共同租界の参事会の参事委員を伊吹山徳治は務めました。共同租界を構成しているのは、イギリスとアメリカ、そして第一次大戦前はドイツでしたが、第一次大戦によってドイツが抜けると日本が3番目に入り、他にヨーロッパの国々と共同でその地域を治めていました。共同租界の参事会メンバーは9人で、当初、イギリス人が7人、アメリカ人が1人、ドイツ人が1人という状態から、ドイツ人の代わりに日本人が1人入り、やがて1927年(昭和2年)からイギリス5人、アメリカ人2人、日本人2人が参事会員となりました。1930年(昭和5年)の上海共同租界の人口は100万人のうち96.4%が中国人であり、ほとんどは中国人が住んで働いている共同租界の統治は9人の外国人参事会員のもとで行われていました。そのメンバーに日本人がなっていまして、戦前・戦中の上海において、非常に影響力を持っていた人物が盛岡市出身の伊吹山徳治という人でした。上海港の開発整備ですとか、また100万人の人たちの民生も見ますので、中国人の地位向上というようなことにも努めていたということで、非常に影響力があり、その当時の上海に貢献した人物であります。
それから盛岡市出身の浅野七之助は、東京で新聞社に入り、戦前は日本の新聞の特派員としてアメリカに駐在するのですが、戦後、サンフランシスコで「日米時事」というサンフランシスコの日系人向けの新聞を立ち上げて、その社長に就任します。アメリカにおける日本語ジャーナリズムのトップの人にして、サンフランシスコを中心とした日系人のリーダーでもあったということです。貧しくて飢えそうな人たちが多かった戦後の食糧難の日本に、アメリカから「ララ物資」というものが送られたのですが、浅野七之助はこのララ物資の創設者でもあり、「ララ物資の父」と呼ばれています。1987年(昭和62年)になって、日系人への貢献、ララ物資の送付、日米親善への尽力などの功績が認められ、サンフランシスコ市長から表彰をされています。
それから2人の知事さんの海外での活躍を紹介しますが、戦後の民選2代目知事・阿部千一知事、この人は戦前に東大法学部を卒業した後、朝鮮総督府の事務官になります。ずっと朝鮮半島で仕事をしており、平壌の市長や慶尚南道の知事などを務めます。そうやって偉くなったのですけれども、日中戦争が始まっていましたが、日米はまだ戦争に入っていない1938年(昭和13年)に退官します。そのあとは民間企業である朝鮮の金山関係の会社の社長などを務めて、そして無事に日本の方に引き揚げて、戦後、初代国分謙吉知事のもとで副知事になり、そのあと2代目の知事になっています。
この2代目の阿部千一知事さんは、朝鮮半島開発の現場での経験が長いので、戦後復興にあたって、北上川流域総合開発五大ダムなど、大胆なビジョンを次々に出し、今もある企業局や医療局も阿部千一さんがつくったものであります。
戦後の岩手県の基本は、実はこの阿部千一さんが作ったというところがあり、活躍の背景として朝鮮半島での経験があったと思います。
戦後の民選3代目知事・千田正知事ですが、この方は戦前、早稲田大学商学部を卒業しましたが、アメリカのハイドルバーグ大学に入り、すぐそこをやめてニューヨークのコロンビア大学に入ります。それだけでもすごいのですけど、ニューヨークのコロンビア大学の後、イギリスに渡ってケンブリッジ大学に入ります。ケンブリッジ大学が気にくわないということで、すぐやめてロンドン大学に移り、ロンドン大学で経済をみっちり勉強します。
その後、10年間日本国内で様々な事業に挑戦し、ほとんど上手くいかなかったのですけれども、1938年(昭和13年)に上海に渡り、上海の森友貿易会社の支店長になり、ここからメキメキ頭角を現し活躍します。
ここは雇われ支店長ですが、やがて上海東和洋行という貿易会社を設立し、自らそのトップになってバリバリ働き、上海日本人社会の有力者になります。そして戦後、在外邦人の引き揚げのために活躍します。まず上海の現地で上海から日本への引き揚げのために活躍し、また日本に戻ってからは上海の人たちが「是非国会議員になって、大陸からの引揚者受入れのための制度設計や政策推進を国会議員になって、ちゃんとやってくれ。」という願いを聞いて、参議院議員選挙に立候補し当選しました。そして参議院議員として大陸からの日本人引き揚げで汗を流し、やがて岩手県知事になりました。
《海外における岩手県人の活躍 ~移民~》
岩手県からの海外移民ということにも注目いただきたいと思います。
日本の海外移住は明治元年(1868年)のハワイ移民から始まるのですけれども、メキシコ、ペルー、ボリビア、ブラジルなどの中南米への移民は19世紀末、明治30年頃に始まります。
メキシコに日本から最初の集団移民として「榎本植民団」という36人が渡りましたが、資金不足、マラリアの発病などで1年も経たずに崩壊してしまいます。しかし、一部現地にとどまった人たちが組織した「三奥組合」、のちの「日墨協働会社」というものが照井亮次郎という岩手県人のリーダーシップのもとで発足・発展しました。
この日墨協働会社は日墨融合を理念に雑貨店、薬局、農場などの事業を拡大し、日本人学校を設立したり、西日辞典(スペイン語・日本語辞典)を編さんしたり、電気、水道、橋などのインフラ整備なども行い、地域に多大な貢献をしました。
中南米ではブラジルに日系人が多いのですが、岩手県人も戦前は2,437人、戦後は223人がブラジルに渡っています。
中南米には親日の国が多いのですが、未開の原生林の開拓に悪戦苦闘したり、マラリアなどの風土病に悩まされたりしながら、日系人が現地社会に貢献して、信頼関係を築いていったということが、今につながっています。
《岩手県人会》
現在、世界には18の岩手県人会(海外県人会)があり、西はフランス、アメリカ、そして中南米にもあり、アジアにもあるのですが、この中で一番大きい岩手県人会がブラジル岩手県人会です。サンパウロにあります。193人が所属していて、県人会館というビルを持っています。私も何度か行ったことがありますが、そこには2万3千冊の蔵書を有する図書館があります。岩手県人以外の日系人にも広く利用されておりまして、ブラジル日系人の中で岩手県人会というのは非常に存在感が大きいです。
ブラジルの次に人数が多いのはパラグアイのピラポの岩手県人会で178人の会員がいます。
南米のいくつかの岩手県人会では、5年ごとに周年行事を開催しており、岩手県知事がそこに行き、岩手県出身移住者やその子弟との交流を通じ、相互の絆を強化して、岩手県と移住先国との相互理解・友好親善を図っています。
そして、県人会からも岩手県庁に例年訪問をしていただいていて、今年度もブラジルのベルン岩手県人会の会長さんやパラグアイのイグアス岩手県人会の前会長さんが訪問してくれました。
2023年(令和5年)、ブラジル岩手県人会が創立65周年でしたので、今年その記念式典を開催する予定となっています。
《岩手県に影響を与えた外国人》
そして国際関係というからには海外から岩手に来た人も含める必要があります。
海外から岩手を訪れ、岩手県に影響を与えた外国人を紹介します。
まず明治政府が富国強兵・殖産興業というスローガンの下、お雇い外国人を招きました。官営釜石製鉄所や釜石鉄道の建設に外国人技師17人が雇われていたそうです。
それからタマシン・アレンさんを紹介します。フランクリン大学名誉文学博士の称号を授与され、久慈市の名誉市民となっている人です。
アメリカ人宣教師のタマシン・アレンさんは冷害や昭和三陸地震津波の被害を受けた岩手県北地域で慰問活動を行う中、久慈地方の乳児死亡率が全国ワースト3位に入るということを知って、1938年(昭和13年)に久慈に移住し、診療所の開設や久慈幼稚園、またアレン短期大学を開設し、教育事業に尽力されました。
タマシン・アレンさんの出身地であるアメリカのフランクリン市と久慈市は、アレンさんを通じて、1960年(昭和35年)に姉妹都市となり、今年度もフランクリン市の高校生が久慈市でホームステイするなど、現在も交流が続いています。
そして、タッピングさんです。盛岡城跡公園にある宮沢賢治の詩碑「岩手公園」に、タッピングさんたちのことが詠われています。
詩の中にある「『かなた』と老いしタピングは」と「老いたるミセスタッピング」というのは聞いたことがある人はいると思いますけれども、ヘンリー・タッピングという宣教師の一家がおり、ヘンリー・タッピングは盛岡中学で英語を教えていました。妻のジュネビーヴ・タッピングが盛岡市内丸の盛岡幼稚園を創設し、初代園長になりました。
そして、ヘレン・ケラーも戦前岩手に来ています。
有名なヘレン・ケラーは1937年(昭和12年)に盛岡市北山の県立盛岡視覚支援学校を訪問しています。ドイツトウヒの木を植樹しまして、その時、ヘレン・ケラーが残した言葉が「目が見えなくても、耳が聞こえなくても心の目はあいており、心の耳が聞こえるならば不自由なことはない。私達は決心さえつけば、やれぬことはない。頑張ってやらなければいけません。しかし1人ではいけない。互いに協力して手を握り合って幸福になりなさい。」2021年(令和3年)に植樹跡地の環境整備を行い、この言葉は今でも見られるようになっています。
4 世界とつながる地方創生
《地方と世界が直接つながる時代》
歴史を振り返りましたが、岩手県のこれからの国際関係についてお話をしたいと思います。
交通と情報通信技術の発達で、地方と世界が直接つながる時代になっています。
岩手県が上海万博やミラノ万博に参加したり、岩手県でラグビーワールドカップやスポーツクライミングワールドカップを開催することができるようになっています。
ハロウインターナショナル安比ジャパンが開校し、ILC国際リニアコライダーを巡る動きがあります。
《岩手県の国際戦略》
「いわて国際戦略ビジョン」という文書があり、そこでは海外との互恵的、多面的な交流を進めながら、成長が見込まれる海外市場において、より多くの外貨を獲得し、ふるさと振興を図るとしています。世界とつながる地方創生ということです。
基本戦略として、「海外市場への展開」、「外国人観光客の誘客拡大」、「ネットワークの強化と多文化共生の推進」を挙げています。
《海外市場への展開》
海外市場への展開については、アジアや北米地域をターゲットに、米、リンゴ、牛肉、水産物を重点品目として、トップセールスやバイヤー招致、現地でのフェアの開催など、市場の特性に応じた戦略的な売り込みを行っています。
先月、私もマレーシアとシンガポールに行き、ショッピングモールや百貨店で岩手フェアなどを行い、米、リンゴ、牛肉をPRし、日本大使公邸で現地事業者などを招いて、県産食材のPRを行いました。
中国・雲南省昆明市で、中国商務部と雲南省政府の共催で、「中国・南アジア博覧会」というのが、開催されているのですけれども、岩手県のブースをこれまで9回出展しています。コロナ禍の時にはオンラインで参加しています。
海外ビジネス展開に取り組む事業者を支援するため、県やいわて産業振興センター、ジェトロ、商工団体等で組織し、県内企業の海外展開を支援する「いわて海外展開支援コンソーシアム」や、県産農林水産物の輸出促進を行う「いわて農林水産物国際流通促進協議会」、そして海外事務所等を活用しています。
海外ECビジネス市場の急速な拡大を受けて、県内企業等の海外ECサイトへの参入支援を行っています。
《外国人観光客の誘客拡大》
令和4年は、新型コロナウイルス感染症の影響で外国人観光客が減少しましたが、令和5年はニューヨーク・タイムズ紙の効果もあり、コロナ禍前の令和元年の水準まで外国人宿泊者数が戻っています。
外国人観光客の誘客拡大については、岩手県における外国人宿泊者数が最も多い台湾を最重点市場とし、実績のある中国、香港、韓国などの東アジアを重点市場としています。
また、訪問客数が伸びている東南アジアと冬季スキー客の増加が期待できるオーストラリアを開拓市場として、各市場のニーズに合わせたプロモーションを展開することとしています。
海外から岩手県に直接アクセスするルートとして、いわて花巻空港への国際定期便の誘致に取り組んでいます。
また外国クルーズ船社に対し、個別の企業訪問や商談会への参加等のポートセールスを展開し、寄港拡大を図っています。昨年は日本に寄港するクルーズ船で過去最大の「MSCベリッシマ」が宮古港に初めて寄港しました。復興道路の開通で内陸までの移動時間が短縮され、内陸の観光が可能になり、盛岡市で開催される「さんさ踊り」をアピールしたことが寄港に繋がりました。
インバウンド観光については、外国人観光客へのおもてなしや口コミサイト等を利用した旅マエ・旅ナカ情報発信、ヴィーガンなど消費単価が高い層への対応などに関するセミナー等を実施して、受入体制を底上げしています。
《ネットワークの強化と多文化共生の推進》
世界と岩手をつなぐ人材のネットワーク構築・強化に取り組んでいます。
岩手県では、主にブラジル、パラグアイ、アルゼンチンなど、南米からこれまでに217名の海外技術研修員を受け入れて、岩手で学んだ経営、和食調理、農業などの技術を自国の発展に役立ててもらっています。昨年度はブラジルのサンパウロから県内の税理士事務所で受け入れ、半年間の研修を実施しました。
岩手県は、令和4年に開校したハロウインターナショナルスクール安比ジャパンと連携協定を結び、教員や生徒の交流等によるグローバル人材の育成、スポーツや文化活動の交流を通じた多文化共生、震災について学び、世界に発信してもらう取組などを展開することとしています。
出入国管理及び難民認定法改正による外国人材受入れ拡大に伴って、外国人労働者を始めとした外国人県民等の増加に向け、令和元年に「いわて外国人県民相談・支援センター」をアイーナに設置し、外国人県民等に多言語によるワンストップ相談等を行っています。
また防災多言語パンフレットや多言語問診票などを作成して、県内における在住外国人を支援しています。
《中国~大連市・雲南省~》
岩手県では県産品の販路や観光誘客の拡大のために海外事務所を設置しています。
まず大連市は、日本企業が進出し、県内企業が比較的活動しやすく、古くから岩手県で民間レベルで交流もあることから、2005年に岩手県大連経済事務所を設置しました。
そして、プーアル茶と南部鉄器のコラボレーションが効果的であることから、プーアル茶の原産地プーアル市との経済交流が始まり、2010年の上海万博での共同出展を経て、2013年にプーアル市がある雲南省と友好交流協力協定を締結しました。
締結した協定に基づいて、経済、青少年、農林業分野など幅広い交流活動を進めるため、2018年に岩手県雲南事務所を設置しました。
この大連・雲南2つの事務所をゲートウェイとして、岩手県と中国の双方の往来を重ねながら、お互いの観光資源、言語、文化、特色ある物産など、幅広く理解を深め、地方政府間交流、経済、観光交流等、一層拡大していきます。
《台湾・香港》
台湾は県内の外国人宿泊者数の半分を占めており重要な地域です。
台湾での県産品の販路拡大のため、事業者を対象に台北市で「いわて県産品総合商談会」を行っています。
また国際観光振興として、東北の知名度を向上させるため、東北観光推進機構や東北各県と連携した訪日プロモーションを行っていますが、東北として香港に行った2017年に「香港・日本東北交流懇談会」を開催し、観光・旅行団体、航空会社、そして香港政府と交流を行いました。
2022年は農業団体・商工団体とともに、カナダの主要4都市で、在外公館等と連携し、レストラン関係者や流通事業者、政府関係者に、岩手の米、リンゴ、牛肉、日本酒などをPRするレセプションも開催しています。
《岩手の価値や魅力の共有》
「世界とつながる地方創生」の章をまとめますと、要するに物産の豊かさ、土地の魅力、人が持っている良さなどの岩手の価値や魅力を海外の人たちとも共有して、岩手の豊かな国際関係を発展させましょうということです。
この結論をかみしめるために、ニューヨーク・タイムズ効果の話にまた戻りたいと思います。
ニューヨーク・タイムズ紙が昨年行くべき52か所に、日本のどこかを上位に挙げるという方針のもとで、地方都市である盛岡市を選びました。そして今年は山口市を選んでいます。
世界的なマスメディアとして定評があるニューヨーク・タイムズの視点から見て、日本の地方が大変価値があり、魅力的だということです。その中でも、盛岡市が第1に挙げるべきところとされたわけです。
ちなみに、盛岡市の良さというものは、盛岡に出入りする人たち、盛岡にやってくる人たちのおかげであるところも多く、盛岡の良さは岩手全体の良さでもあると言っていいと思います。
人口減少問題が、日本の国難、国を挙げて取り組むべき課題とされている今日、人口の少ないところとしては、その原因となっている生きにくさを生きやすさに変えるための政策に邁進しなければならないのはもちろんですが、一方、人口が少ないところにも素晴らしい価値や魅力があるということを忘れてはならないのだと、そういうことをニューヨーク・タイムズ紙が気づかせてくれたと思います。
人口減少問題には対策を講じる必要がありますが、人口が少ないこと自体が悪いことや劣っていることではないということです。
岩手県が、岩手の価値や魅力を全国や海外に発信し、多くの人たちと共有しようとすることは、日本の人口の少ない地方の価値や魅力を世界の人たちと共有しようとすることであり、地方の価値や魅力によって、日本全体のあり方を構成し直していくということでもあると思います。
おわりに
最後になりますが、交通の発展により時間・距離のハードルが低くなり、またインターネット、コンピュータ、携帯電話などの情報通信技術の発達によって国際的な意思疎通が容易になりました。
技術的な理由からも、質的に豊かな国際交流が可能になっていますが、これは大谷翔平選手を始め、岩手に生まれ育った若者たちがスポーツや文化芸術の分野で全国的に、さらに国際的に活躍しているということの背景でもあります。
先月12月にマレーシアとシンガポールに行って岩手の物産観光のPRをしたときに感じたことですが、約30年前、1990年頃に私はシンガポールの日本大使館で働いておりました。
約30年前と比べて東南アジアにおける日本の政治的・経済的存在感は相対的に低下しています。
しかし、一般大衆の日本への関心、そして日本の人気というものは大きく高まっていました。
それは私の予想を大きく超えるものであり、日本食レストランの数が大変増えています。ご当地の皆さんが日本の食べ物を食べる機会も増えています。そして日本を訪れる人の数も大きく増えています。漫画やアニメも30年前よりさらに広く深く浸透しています。
円安ということもありますが、日本を訪れること、日本の普通の人が食べているものを食べたり、普通の人がやっていることを経験したりするということが大変魅力的であるというわけであり、これがニューヨーク・タイムズ紙の件とも相通じることであります。
日本の自然と歴史に育まれた地方の生活文化というものが、欧米の人たちにも、そしてアジアの人たちにも求められているということです。
ニューヨーク・タイムズ紙にはコーヒーショップやわんこそば、盛岡城跡公園や大正時代に作られた建物の辺りを歩くなど紹介されていますが、その他にも色々あります。
岩手県としましても、岩手県民が育んできた生活文化を海外の人たちと共有することを基本にして、国際関係を発展させていくことが良いのだと思います。
それは相互理解を基盤とした関係の発展であり、21世紀の時代に岩手県が自然な形で発展し、岩手県民や県外海外の人たちが、いわば誰でも岩手県をベースにして、それぞれの幸福を守り育て、希望を持つことができるという基本的な方向性であると思います。
昔は、英雄豪傑のような人物でなければ、国際関係の主体になれなかったわけであります。先ほど紹介したような特別な人でなければ、海外で活躍したりできないし、また外国から岩手に来て活躍した人たちも、聖人、宗教家が多いということがあるのですが、そういう特別な人ばかりだったわけですが、今の大谷翔平選手のように英雄豪傑型で国際的に活躍している人たちはいますけれども、プラス今は普通の人でも国際的に生活や仕事を楽しむことができる、国際的に幸福になることができる時代です。
そういう方向性に向かいまして、岩手県として前に進んでいこうということで「岩手県の国際関係-歴史と今-」ということを終わりたいと思います。
ありがとうございました。
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