希望王国岩手スクールセッション(平成21年12月15日)
- 訪問学校:協和学院水沢第一高等学校
- 実施日 平成21年12月15日(火曜日)
- 場所 協和学院水沢第一高等学校
生徒
起立。お願いします。
生徒
着席。
滝澤校長
それでは、本日の希望王国岩手スクールセッションの講師の先生をご紹介いたします。
本日の講師の先生は、岩手県知事の達増拓也先生です。知事さんは、1964年、昭和39年6月に盛岡市にお生まれになりました。高等学校は盛岡第一高等学校をご卒業、その後東京大学法学部に入学されまして、昭和63年3月卒業されました。卒業と同時にその年の4月、外務省に入省いたしました。入省後は、在シンガポール日本大使館二等書記官、外務省の国連局科学課、外務大臣官房総務課課長補佐などを歴任なされました。平成8年、衆議院議員に立候補し、初当選なさいまして、その後連続4期国会議員を務められました。国会にはさまざまな委員会がありますが、知事さんは予算委員会を初め文部科学委員等、およそ11のさまざまな委員会の委員をお務めになりました。このことは、さまざまな分野を経験なされ、社会の動きの幅広い知識をお持ちであるということだと思います。そして、国会議員当選11年後の平成19年、岩手県知事に就任なさいまして現在に至っております。
知事さんは、公務多忙の中、わざわざ私立学校に学ぶ皆さんと一緒に学びたいということで時間をつくっていただきました。本日は、「高校生の皆さんに期待すること」と題して、知事さんの学生時代のこと、外交官時代のことをお話しくださるということです。たくさんのことを吸収して、みんなの今後の人生に役立てていただきたいと思います。
それでは、知事さん、よろしくお願いいたします。
達増知事
それでは、あいさつはさっき済んだので、早速お話の中身に入っていきたいと思いますけれども、今日は水沢第一高等学校という歴史があり、また生徒一人一人の今と将来にきちんと目を向けながら、きめ細かい充実した授業や課外活動を行っている、そういう岩手を代表する学校の一つ、そこにお邪魔をして授業をさせてもらえるということで期待してやってきました。
今日どういう話をするのかというのは、手元に1から6まで書いてありますが、まず一通りこういう話をして、時間があればいろいろつけ加えていきたいと思います。2時15分までですけれども、最後に10分ぐらいは質問受けて、それに答えるみたいなこともやりたいと思います。
さて、高校時代ですけれども、大学受験を控えてどのような勉強をしたかというところ、2番目の話と関連づけますと、東京大学の法学部に入ったのですけれども、なかなか試験が難しいわけです。それで、盛岡一高から行ったのですけれども、年に10人入れればいいほうで、私のときには現役で入ったのが私含めて2人だけで、あとは浪人して入った4人がいて、計6人しか入っていないのですけれども、私は高校時代に成績でベストテンに入ったことはないのです。1学年に300人くらいいて、大体50番ぐらいには入っていたのですけれども、ベストテンに入ったことはなかった。だから、私が関わった高校の先生は、ほとんど東大は無理だからやめたほうがいい、もっと成績に合ったところを受験しろみたいなことを言っていたのですけれども、1人だけ、いや、東大受けろという先生がいて、すごく仲がよかった先生なのですけれども、ああ、そっか、じゃやってみようと、その先生にそそのかされたというか、その先生に言われてその気になって東大を受験したわけであります。
岩手出身の漫画家で三田紀房さんという、「ドラゴン桜」という漫画をかいているのですけれども、テレビドラマにもなった「ドラゴン桜」、それは全然東大受験できる学力がない生徒が特訓をして東大に受かってしまうという話なのですけれども、かなりそれに近い勉強をしていました。ソフトテニスクラブに入って、ソフトテニスを毎日やっていて、下手で、あとスタミナも余りなくて、とにかく毎日へとへとになってうちに帰って、それで余り勉強もできずに、それでも3年生のインターハイ予選まで、ですから盛岡市の大会で終わったのだけれども、ゴールデンウイークの頃までずっとやっていて、そこで引退して、そこから受験を意識した勉強をするようになったのですけれども、基本は傾向と対策といいましょうか、過去どういう試験問題が出ていたかということをちゃんと調べて、それに合わせた勉強をするようにしましたね。
それから、あともう一つポイントは、たくさんのことを覚えて書けるようにしなければならないのですけれども、そのころ記憶というのは結局こういうことかなと高校生のころおぼろげながら感じていて、今そのとおりだと確信持っていることがあるのですが、それは記憶というのを上手にやろうとしてもなかなかうまくできない。覚えるというところに力を入れるのではなくて、思い出すことに力を入れて勉強すると効果的である。極端に言うと、私は今覚えるとか記憶するということはこの世には存在していないのではないかと実は思って、この世に存在するのは思い出すということだけね。だから、覚えようとか、記憶しようというところに力を入れてもなかなか難しい。ただ、思い出すというところに意識を集中し、思い出すというところに力を入れて勉強すると、それはかなり効果があります。だから、一問一答のちっちゃい問題集みたいな、そういうやつで問題を見ながら答えを思い出すというようなことを繰り返しやって、思い出す訓練というのをやりましたね。その後外務省に入るときとか、外務省に入った後アメリカに留学したりして、あちこちで試験を受ける機会があったのですけれども、その都度思い出す訓練をするということでいろんな試験をこなしてきました。
ある本に書いてあったのですけれども、人間一度目にしたこととか、一度聞いたことというのは、脳のどこかには残っているらしいですよ。何らかの拍子にそれを思い出したりする。これは、昔のソ連の同盟国だったかな、ちょっと乱暴な実験で、人間の脳に電極をつないで弱い電気を流す実験をしていて、あるところに電気を流したら、昔その人の誕生日のお祝い、どういう人たちが来て、どういう話をして、どういうことをして遊んだかとか、ビデオを再生するように全部思い出したという、今まで全然思い出したこともないすっかり忘れていたようなことを思い出すことができた。人間、死ぬ直前に生きていた記憶、走馬燈のようにどんどんがあっと一気に思い出すとかそういうこともあるそうなのですけれども、何かの拍子に思い出すということはあるのですよ。だから、試験のときにも、ああ、これ忘れちゃったとかあきらめないで、どうにかすれば思い出せるんじゃないか、その言葉は一番最初の字は「あ」だったか、「い」だったか、「う」だったかと、あいうえお、かきくけこ、さしすせその順番で検索してみたりとか、1文字ずつの検索で思い出せないときには、最初の2文字は「あい」だったか、「あう」だったか、「あか」、「あき」とか、そういう検索を一気に頭の中でガアッとかけるとか、とにかく時間まで思い出す努力をする。そのときに思い出せないかもしれないけれども、そういうぎりぎりの局面でも思い出すぞというような勢いでやっていると、思い出す力がどんどん伸びてくると思います。
ちょっと勉強術の世界に深入りをしてしまうけれども、私が小さいころにはビデオなんていうのはなかったし、中学生のころようやく……いや、高校生に入ってからかな、高校生のころにようやく家庭用ビデオというのが出てきて、だからもっとちっちゃいころには好きなテレビ番組とかは録画できなくて、どうしていたかというと、カセットテープに音だけとって、音を聞いて絵を思い出すみたいな感じで楽しんでいましたね。そうやって自分でビデオを脳の中で再生するような。カセットにとったりとかできればいいけれども、そういうこともできなかったり、ビデオレンタルとかそんなのがなかったから、テレビの好きな番組、一度見逃すともういつ見られるかわからない。だから、本当好きな番組、「宇宙戦艦ヤマト」とか、そういうのが流行っていたのだけれども、そういうのを見たら、あとはそれを繰り返し思い出すみたいなことをして、自分の脳の中でビデオを借りてそれを見るみたいなことをしていました。
現代はいろいろ便利になっているから、余りものを思い出すために努力する機会がなくなっているかもしれないのだけれども、何かかんか、嫌なことは思い出す必要はないので、その日経験した楽しかったことを夜思い出すとか、今、年末だから今年1年楽しかったこととか、あれは大事だったなというのを思い出すとか、そういう思い出す訓練をすると、楽しいことを思い出すのは楽しいですし、それでみるみる思い出す力もついてくるからいいと思いますよ。
そうやって東大に合格して、合格発表が終わって、それで盛岡に戻ってきて学校の先生に報告に行ったのだけれども、学校で僕より成績のいい人たちがばたばた不合格で討ち死にをしていて、職員室はすごい沈うつなムードになっていて、私が一人だけはしゃいで、受かりました、受かりました、シーンという感じだったのを思い出すのですけれども、そうやって受かったわけです。
ただ、東京大学、全国から優秀というか、それぞれ特殊な能力を持っていたり、あるいは普通の能力がうんと高かったりとか、そういう人たち、あと自信満々な人たちとかが集まっているので、そういう中で自分の意見をなかなか聞いてもらえなくて苦労しましたね。ゼミといって少人数でいろいろ話し合いながら授業を進めていくようなタイプの、そういう授業があるのですけれども、いろいろ意見を言っても何か無視されてしまうことが多かったです。訛りがあるので、聞き取りにくくてきちっと聞き取ってもらっていなかったのかもしれないけれども、それにしても余り意見を聞いてもらえない。やっぱり東京の麻布高校とか、それから兵庫県の灘高校とか、そういう東京大学に何十人も、100人近くどどどっと入ってくるような超進学校から来た人たちが寄り集まって、その人たちがツーカーでよく話さなくてもお互いわかり合っているみたいな雰囲気の中で、そこで発言して聞いてもらうというのはなかなか大変だったのです。やっぱり実績を重ねないと話を聞いてもらえないのかなということも思いながら、大学2年生のときに、2年生から3年生にかけての春休みのあたりに外務省主催の懸賞論文コンクールがあって、それに国際政治に関する論文を書いて出して、それが1等賞をとったのです。外務大臣賞という賞をとり、それで学校の友達、クラスメートたちも私の発言をちゃんと聞いてくれるようになりましたね。だから、やっぱり世の中に出て、何かそういう賞をとったからといって、その人に対する態度をそれまでと変えるというのはよくないことだとは思うのだけれども、ただ世の中そういうものだというところもあり、自分でいろいろ伝えたいとか思っても実績がないと周りがその気になってくれないということがあります。自分のほうからすれば、せっかくいろいろ伝えたいのに、どうも何か聞く雰囲気になっていない、ではわかりやすく実績をちゃんと重ねて、それで聞く気にさせてあげようかという一種の親切心でもありますね。こっちからすれば親切心でちゃんと聞く気になるような自分になってあげようというところもありました。
それで、外務大臣賞をとったご褒美で東南アジアの5つの国を2週間でぐるっと回るという、そういうご褒美をいただいて、外務大臣賞プラス入選、1等賞、2等賞から5等賞というのかな、全部で5人の大学生がタイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールという東南アジアの5カ国を2週間でガアッと回るのをやり、行く先々でそれぞれの国にある日本大使館の人が迎えてくれて、この国はこういう国ですという説明を大使館の外交官がやってくれて、そして日本がそれぞれの国に援助しているのですね、経済協力、ODA。フィリピンであれば、ボホールという町に農業大学をつくる、それを日本のお金でつくるなんていうことをやっていましたし、マレーシアではマラヤ大学という大学に日本語を勉強する講座を日本のお金で先生の給料を払うとか、資料、教科書を買うとかというのを日本のお金でやって、そこでマレーシア、マラヤ大学で日本語を勉強できるようにするとか、そういうところを見せてもらいながら、それでこういう仕事はすごいやりがいがあっていいなと思って外務省を目指し、ここでも外交官試験という試験に受からないと入れないのですけれども、試験受かって入りました。
ただ、大学4年生のときに受けたときには、1次試験で不合格になってしまいまして、1次試験というのが筆記試験で、それに受かれば今度は2次試験で面接に進めるわけです。面接をして断られたら、これはもうだめなのだなと、ただ筆記試験ですから、それは憲法とか国際法とか経済学とか勉強の試験で、これはちょっと努力不足でだめだったのだなと、だったらもう一年努力して勉強の力を伸ばしてみて、面接までいって断られたらあきらめるけれども、学力だけであきらめるのは嫌だなと思い、大学に1年残って、大学5年生のときに1次試験合格、2次試験、面接までいって、それで合格して、外務省に入ることができたわけであります。これは、4年生で卒業しないで5年生まで残るというのは、落第をするわけですね。わざと卒業に必要な授業の試験を受けないで、単位を落とすと言うのですが、わざと落第をして大学に5年間いて、それで外務省に入ったわけであります。
外務省の仕事は、非常にやりがいがあって、主な仕事はシンガポールの日本大使館、まさに大学時代に一度行っていて、ここはなかなか面白いところだなと思って、希望してそこに赴任できたのですけれども、そこに2年間いて、日本政府とシンガポール政府のいろんなやりとりの伝言係をやったりとか、あとそのときは1991年にシンガポールに着任したのですが、1991年……黒板も使おう。1991年というのは1941年、これは太平洋戦争が始まった年、日本がハワイの真珠湾を攻撃してアメリカと戦争に入った年なのですが、真珠湾攻撃をした同じ日にシンガポールに当時イギリス軍の基地があって、シンガポールも爆撃しているのです。イギリス軍の基地だけ壊したわけではなくて、その周りに住んでいる普通のシンガポール人の住んでいるところも爆撃して、罪のないシンガポール人をかなり死なせてしまっていたのですね。だから、その50周年ということで、いろいろそういう過去の戦争の問題をシンガポールでも振り返っていて、日本軍のために大分犠牲になりましたねみたいなことをやっていて、そこにどううまく日本政府として関与して、歴史認識を共有しつつ現在の日本、シンガポール関係を悪化させないようにするかというような仕事をしていました。
東京に戻って、東京のほうでは主にやった仕事で国際科学協力室というのが外務省にあるのですけれども、ここで日本といろんな国との間の科学協力を担当するのですけれども、具体的にどういうのがあるかというと、わかりやすいのがアメリカのスペースシャトルに日本の宇宙飛行士が乗るときの協力。これいろいろルールを決めておくのです。僕が働いていた頃は、まだ誰も日本人はスペースシャトルに乗っていなかったのだけれども、毛利さんが最初だったかな。スペースシャトルの中で何か事故があってもお互いに損害賠償請求をしないなんていう取り決めを結んでおくわけです。宇宙というのは、どういう事故が起こるかわからないので、事故が起きたときの責任というのをお互い、誰が悪いどっちが悪いとか議論してもしようがないような世界だから、あらかじめ事故が起きても責任問題は追及しないで、損害賠償なんかお互い請求しないようにしましょうなんていう取り決めを結んでおくのですね。スペースシャトルの中でどういうことをする、どういう研究をするとかいうのは、日本だったら文部科学省のほうで考えるのですけれども、法律関係とかいろんな実務的な取り決めは外務省のほうでやっていて、それでアメリカ、ワシントンDCに行って、向こうの担当の人と交渉したり、向こうの人が東京に来て東京で交渉したりとか、そういうことをしていました。
次、知事になってというところの間に衆議院議員を10年半ぐらいやっていたのですけれども、何で外務省をやめて衆議院議員をやったかといいますと、1991年というのが私がシンガポールに着任した年なのですが、このあたりから世界の政治経済構造が大きく変化していったのですね。これ以前、1980年代というのは、ロシアの前身であるソ連という、そういう国があり、そのソ連がアメリカと激しく対立して、ものすごい数の核兵器をお互い突きつけ合って、いつ全面核戦争、人類が滅びるような全面核戦争が起きるかわからないような時代だったのですね。それが1991年のちょっと前のあたりから、ソ連はそういう政策を転換して、アメリカと和解しようと。今のロシアになって、アメリカと共存共栄するような方針に転換。ただ、そういう冷戦ということが終わって、アメリカ、ソ連の全面核戦争の危機は少なくなったのだけれども、それまでアメリカ、ソ連が全面核戦争になるかもしれないのだから、地域紛争とかちっちゃい戦争はやらないでおけと押さえつけていた中東の紛争とか、いろんな地球のあちこちでのちっちゃい戦争がぽこぽこ起こるようになってきたのがこの頃からですね。日本政府がいま一つ新しい時代にきちっと対応できないで、日本には自衛隊というのがあるけれども、そういう地域紛争に自衛隊がどう関わっていけばいいのだろうか、なかなか議論がまとまらなかったのです。あと、経済についても、冷戦の時代というのはアメリカとその仲間たち、これは西側と言って、ソ連とその仲間たちは東側と言って、地球の国々が西側、東側に分かれて対立しながら共存していまして、西側は西側の中で経済の取引、貿易とか投資とかをやっていたわけですよ。その中で、安くていいものをどんどんつくることができるのは日本だけだったのですね、大体、西側の中で。だから、日本はすごい経済、つくればどんどん売れて、アメリカやヨーロッパが日本のものを買ってくれて、経済の調子がすごくよかった。ところが、冷戦が終わって、西側、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本が中国から物を買うとか、それまでソ連の仲間だったところの、インドなんかもそうだったのですけれども、日本以上に安いものをたくさんつくれるようなところがアメリカ、ヨーロッパ、日本に物をどんどん輸出するようになり、日本の経済が一気に調子が悪くなってくるのがこの辺なのですね、やっぱり。そういう日本経済の調子の悪くなるのに対して、その頃の日本政府はなかなかうまく対応できなかった。でも、完全に100%だらしなかったかというとそうでもなくて、日本政府あるいは政治家の中にも改革をしなければだめだという人たちはいたのですね。この頃からですよ、日本の政治の改革が必要だと言われるようになったのは。
そういう中で、選挙の仕組みが変わって、私が生まれ育った盛岡と紫波郡を合わせたところからだれか1人選ぶという新しい選挙制度が1996年に最初の小選挙区制での衆議院議員選挙が行われ、そこに私は立候補したわけです。外務省の人たちも、今本当に政治の改革が必要だから、世界がどういうふうになっているのかよくわかっていて、日本がどういうふうにしなければならないのかよくわかっている達増君みたいな人が国会議員になってくれれば、それは外務省のためでもあるということで、歓迎されて外務省をやめ……やめるのを歓迎されるというのはちょっと寂しいところもあって、やめないでくれ、残ってくれ、外務省は君が必要なんだみたいに言われなかったところはちょっと寂しいのですが、歓迎されて外務省をやめて、衆議院議員にこの年からなって、知事になったのが2007年の4月、一昨年。
10年半くらい衆議院議員をやっていたのですけれども、なかなか日本の改革、いろいろ部分的な改革はできたのですけれども、世界の国際紛争に日本、自衛隊の存在どう絡んでいくかというようなこともこの10年では解決できていなくて、それで沖縄普天間基地をどうする、こうするというのが今でも問題になっているのですね。なかなかそういう安全保障、防衛の問題が解決しない。それ以上に我々の身近で深刻なのは、経済の改革、経済の本当の改革というのがここ10年ぐらい、この辺から数えると20年近くたつのだけれども、まだ日本の経済の調子がよくない。日本経済の調子がよくない究極の原因は、地方の経済が弱いままだからであります。わかりやすく断言すると、これ以前の日本は西側陣営の工場としてとにかく効率よく世界で使われる安いものをたくさんつくればいいということで、集中させてやるのがいいだろうと。東京周辺、あるいはトヨタの工場がある愛知県とその周辺、そういったところに工場を集中させて、中央集権的に経済、社会構造ができていた。でも、冷戦が終わって西側陣営の中での工場という役割ではなく、世界全体を相手にして日本ならではのものをつくって売っていくというときには、かえって集中して同じものをたくさん大量につくるというのだけではだめなのです。そういうのも全く必要なくなったわけではないですよ。日本の自動車は、いまだにたくさん売れるし、日本のテレビ、テレビとか電気製品もまだ外国にどんどん売れるのですけれども、それ以上に例えば岩手なら岩手ならではのものをつくって売る。それは、最先端の工業製品に限らず、農林水産物でもいいのですけれども、私が知事になってから盛んにやっているのは、そういう岩手の農林水産物とか、あと南部鉄器みたいな伝統工芸品のようなものを、いいものというのは世界のどこの人でも欲しがりますからね。
今年9月、中国、上海に行って、中国でお茶やっているような人たちに南部鉄器を売ってくるというのをやったのですけれども、中国でお茶やっている人たちは、やっぱり南部鉄器は非常に素晴らしい、これは絶対買いたいという、そういう人たちがいて、そういう人たちに売れるわけです。日本各都道府県、いろんな地方が自分たちの持っているよさを最大限引き出して、それを外国にもどんどん出していくというようなことを日本じゅうがやるようになれば、日本経済全体が構造改革、真の構造改革ができて強くなっていくでありましょう。そういうことというのは、国会議員としてやっているより、知事になってやるほうがそういうことが先頭に立ってばりばりできる。今そういう時代なのですね。
あとは、高校を卒業してからずっとふるさと岩手を離れて、東京のほうの大学に行ったり、さらにその後はシンガポールとか外国で働いたりして、ちょっとふるさとから遠く離れていたことについて、ふるさとに申しわけない気持ちも大分自分の中で大きくなってきていて、ふるさと岩手に直接役に立つような仕事をしたいなという気持ちも強くなっていました。それで2007年に知事になって、今に至っているところであります。知事になってというところの話はそんな感じですね。
6番、皆さんに期待すること、これはみんなにいろいろ書いてもらったやつが手元にあるが、それとの絡みで話していくほうがいいと思います。まだ残り15分で、最後の10分をそれに使うとしてまだ5分ありますね。中学校時代の話を1つしようかと思います。中学校2年生のときに、私は2年生で生徒会役員になるのですけれども、これも全然生徒会役員選挙に立候補するつもりはなかったのですが、3年生は一通り生徒会の役員に立候補はしていて、2年生で誰も立候補していなくて、それで達増、おまえ何かに立候補しろよという、そういう圧力があり、それで、じゃ副会長に立候補しましょうと言って立候補し、でも3年生でも1人副会長に立候補していたから、そっちのほうが当選するのだろうなと思いつつ、でもふたをあけてみたら私のほうが当選してしまって、3年生ばかりの生徒会役員の中に1人だけ2年生で入って、それで中学校2年生の2学期ですね、夏休みから冬休みにかけての学期、3年生の中で生徒会役員として2年生1人でやるのですけれども、いろいろ球技大会とか文化祭とか、そういう行事を一緒にやって、すごくかわいがってもらったし、文化祭なんかは最後キャンドルサービスなんていうのをやって、今では体育館でキャンドルサービスなんて消防法とかの関係でできなくなっているかもしれないのだけれども、そういうのをやって、うまくいくかどうかみんな心配していたのだけれども、うまくいって、最後3年生の生徒会長とかみんな涙を流して喜んでいるわけですよ。そういうのに僕も一緒によかったですね、よかったですねとかやって、すごく3年生たちにお世話になり、生徒会役員、僕の中学校ですと前期、後期と分かれていて、次の期の冬休みが終わった1月、3学期から年度を超えて次の夏休みまで、冬休みから次の夏休みまでの期の、これは当時の2年生が生徒会役員になる番で、僕は生徒会長に立候補して、僕しか立候補しないから信任されて生徒会長になっていて、最初に迎えた行事が予餞会という3年生を送る会ですね、卒業式の直前に生徒会主催で3年生を送る会の行事、これを2年生、生徒会長として成功させなければならない。それと並行して卒業式で送辞を読まなければならなかったのですね。卒業式では、卒業する3年生の代表が答辞という、答えるあいさつを読み、2年生の代表が送辞、送る言葉ですね、そういう送辞を読まなければならなかったと。予餞会、3年生を送る会の準備と並行して送辞を書かなければならなかったのですね。どういう中身にすれば、大変お世話になった3年生たちに最大限の感謝の気持ちを込められるだろうかとかなり真剣に考えて悩んで、また予餞会の準備のほうもいろいろ工夫しながら悩んでやっていて、そうやって頭の中が煮詰まってきたある日、3月ですから、もう大分天気のいい日はぽかぽかとしてきて、それで太陽の光がすごい気持ちいい季節だったのですけれども、私が学校から帰るときに、土曜日だったのかな、だからまだ太陽がぽかぽか明るいうちに家に帰る途中に、はたとして、一切はエネルギーであるという観念が頭に浮かんできたのです。そして、エネルギーが高まっていくのは人間の夢と愛が決め手であるという考え方がいきなりぱっと浮かんできたのですね。これは、仏教でいう悟りを開くみたいな、あるいはガンダムでいう覚醒とか、ニュータイプとして覚醒するとか、あとコーディネーターとして覚醒するとかいろいろあるみたいだけれども、そういう感じの体験をしたのです。
これは決して珍しいことではなくて、何かに真剣に一生懸命打ち込んでいる人には起こることでありまして、それは勉強の分野でも、スポーツの分野でも文化活動でも何でも起きることなのですけれども、生徒会活動で起きたわけですね、私には。送辞の中には、3年生の皆さんの学校に対する愛、そして皆さんの向上心、夢と愛が巨大な大きなエネルギーになって文化祭の成功やいろんな行事の成功につながり、私たちの本当にエネルギーをいただいてありがとうございましたみたいな送辞を書いたし、その覚醒がばんと来て、仕事の力が一気に3倍から5倍ぐらいにはね上がりまして、予餞会の準備のほうもいろんな思いつかなかったアイデアがぽんぽん出てきて、夜中2時、3時までいろんな準備、書いたりしていても全然疲れなくて、次の日学校に行って生徒会役員とかクラスの代表に、これはこうしてああしてという指示をばんばん出して、それでかなりいい予餞会、3年生を送る会をやることができました。
以来、そのときの感覚をもう一度ということを一種、目標目的としてやっていますね。予餞会とか卒業式が終わって、しばらくはまだ余韻が残っていたのだけれども、春休みになり、そして新学期が始まるとかというころになったら、何か普通の状態に戻ってしまっていました。ただ、その後いろいろ3年生になってからも、修学旅行とかいろんな行事、あとクラス合唱の合唱コンクールとか、私は指揮者をやっていて優勝したりしているのだけれども、そういう折々にすべてがエネルギーで、夢と愛があれば無限のエネルギーを自分のものにできるみたいな感覚、願ったことはすべて叶うみたいな感覚が出てきて、それは一体どういうメカニズムでそうなるのだろうかというのを知りたいというのが勉強していく動機になっているし、あとはそういう境地に達していろいろ仕事をしていければいいなというのが今の働く目標にもなっています。
一時は空を飛べるようになったらいいだろうなとか、瞬間移動とかできるようになったらいいだろうなとか思ったのだけれども、ただそういう異常な能力というのは別になくても困らないですね。先週私はシンガポールに行って、岩手の牛肉を宣伝したり、岩手の特産物をシンガポールに行って宣伝してきたのだけれども、必要であれば飛行機に乗っていけばいいわけですよ。また、瞬間移動というのはできれば便利かもしれないけれども、何のためにそれをするのかということで、人に会いたければ飛行機で行けばいいし、あるいは連絡をとるのが目的であればインターネットのメールのやりとりとかでもいいし、顔が見たい、写真のやりとりとかでもいいし、そうやって考えてみますと、やりたい目標、何をしたいのかというのがはっきりあれば、今の自分のできることを組み合わせていけば大体それはできる、そういうものだと思います。
超能力とかでスプーン曲げとか、さいころを振って必ず6が出るとか、そういうのは面白おかしいかもしれないけれども、本当に人生において成功する、あるいは世のため、人のためにということを考えれば、別にそんなことができなくてもいいわけでありまして、むしろもっと大事なできなければならないことはほかにあるはず。それは、正しい目的意識を持っていればできると思う。特に科学技術が発達して、今インターネットでいろいろ検索すると知りたいことというのはほとんど知ることができるようになっていますね。これはすごいです。こういう世の中で大事なのは、正しい願い、正しい望み、願望ですね、正しい願望を持つことです。インターネットが発達して、自殺をしたいとか、あるいは何か薬物を入手したいとか、そういうよこしまな悪い願望を持つと、それはそれでかなり簡単に実現してしまう世の中になっています。だから、非常に危険で、正しい願望を持つということが21世紀の人類にとってはすごく大事。だから、皆さんに期待することに戻ると、正しい願望を持つことですね。悪いよこしまな願望を持つと、それはそれで叶ってしまう世の中になっているので気をつけてください。正しい願望を持つこと。これは僕も気をつけていて、やっぱりよこしまな願いを持つと、それはそれで叶ってしまい、ほかの人に迷惑をかけたりするから、正しい願望を持つように気をつけていて、それでやっぱり岩手の暮らしや仕事を少しでもよくする、岩手の経済状態を少しでもよくする、いろんな医療、福祉、教育、岩手のそういったことも少しでもよくしていくとかということに願望を持つようにしていまして、そういう願望を本気で持っていれば、結構それは叶います。私だけが持っているわけではなくて、それは岩手の多くの人たちが結構健全な願望を持っていますよね。農林水産業に従事されている皆さんは、本当においしくて素晴らしいものがとれる、これを何とか日本の人たち、あるいは世界の人たちにも食べてほしいみたいな、またそういうのをどんどん売りたいという人もあちこちにいて、その願望がうまく組み合わされば、どんどん岩手のものがシンガポールにも行って、シンガポール人が岩手の牛肉やリンゴ、この辺の江刺リンゴとか奥州牛も含むいわて牛を持っていったのだけれども、そういうのをシンガポール人の人たちはおいしそうに食べていました。正しい願望を持てばそれは叶うということで、では皆さんがどういう願望を用意してくれたか見せていただきましょう。では、出してください。
なかなかカラフルでいいですね、また。そうですね、胆沢の農業改革、それはどういう思いを込めて、どういう内容でそう書いたのですか、胆沢の農業改革って。ちょっと教えてください。
生徒
僕の住んでいるところ胆沢では……
達増知事
立ったほうがいいね、みんなに聞こえるように。
生徒
僕の住んでいる胆沢では、結構使われていない田んぼが増えていたり、あと高齢化なのでとても元気がないと感じています。それで、私が自分の育ててくれた胆沢に恩返しできるように、農業で胆沢を活性化できたらなと思い、この願望を書きました。
達増知事
かなりいい願望だと思います。
あとはですね、公務員になって人の役に立ちたいというのはすごい共感を覚えるのだけれども、それはどういう思いで書きましたか。
生徒
そのままです。
達増知事
なるほど、なるほど、そのまま。
あと、実はみんなが書いているやつは、手元にリストのような格好であるのだけれども、郷土の文学を大切にし、日本や世界に発信していける図書館司書と書いてくれている人がいます。図書館司書。休んでしまっている。そうか、そうか。図書館司書というのは、大事な仕事なので面白いなと思ったのだけれども。
あと、岩手の学生の持つ可能性を伸ばし、他県、世界を舞台に活躍できる人を育てる教師になりたい。それはどういう思いで書いたのか説明をお願いします。
生徒
友達では多くの可能性を持つ友達が多くいて、それでもってさまざまな事情や誘惑に負けて自分の可能性をつぶしてしまう人をたくさん見てきたので、その中でももっと対等に世界でも他県でも通用できると思うので、教師になって生きる力を育てたいと思っています。
達増知事
ありがとうございます。
さて、時間になってしまいました。希望という言葉でもいいので、学校と並んで希望という言葉も書きますけれども、そういう願望、希望、そういう望みを、正しい望みを持つことができれば、あとは最初のほうでしゃべった思い出す力というのと同じで、どうすればそれができるかというのを自分の中から引き出していく、そういう努力と工夫を重ねていくとできると思います、それぞれ。ですから、ぜひ、追求していくうちに自分の願望、希望というのをより具体的にしていくとか、あるいはより膨らませていくとか、そういう修正というのは出てくるかもしれません。つまりより正しいとか、あるいはよいという言葉でもいいです。よい願望、よい希望、自分の持っている願望や希望をよりよいものにしていく。私の場合も外務省だ、国会議員だ、知事だとかというのも、自分なりに自分の願いというのを、自分の望みというのをよりよいものにしていこうという中でそのためのどういう仕事を通じてやっていくのがいいのだろうか、どういう職場でやっていくのがいいだろうかという工夫と努力の中で今に至っているところであります。岩手の高校生の皆さんがそれぞれそういう工夫と努力をしながら、自分でより正しいよい願望、希望というのを自分の中で育て、そしてそれに向かって努力と工夫をしてもらえば、岩手全体がどんどんよくなっていくという私自身の願望と希望もかなっていくことになるので、よろしくお願いをして私の授業を終わります。ありがとうございました。
生徒
起立。ありがとうございました。
このページに関するお問い合わせ
政策企画部 広聴広報課 広聴広報担当(広聴)
〒020-8570 岩手県盛岡市内丸10-1
電話番号:019-629-5281 ファクス番号:019-651-4865
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。