令和元年度部課長研修 知事講話
とき:令和2年1月10日(金曜日)
ところ:ホテルメトロポリタン盛岡ニューウイング 4階メトロポリタンホール
対象者:総括課長級以上の職員
「危機管理と幸福保障の自治」
1.東京救出のための一極集中是正
危機管理ということで、東京救出のための一極集中是正というところから話を始めます。
東京一極集中のまま、首都直下地震が起きれば、命が幾つあっても足りない。これは12月の初めに、NHKが一週間にわたって首都直下地震を取り上げて放送していた結論が、これだったわけです。
一週間かけて、このドラマであるとか、解説であるとか、様々な形で首都直下地震を想定したり分析したりしたわけですけれども、命が幾つあっても足りないというのは私の言葉ですが、まず、地震が発生して、東京駅前のような人がたくさんいるようなところで、大勢の人たちが逃げ惑う中、将棋倒しで亡くなる人がたくさん出たり、火災が発生しても、東京都の消防体制では、すべての火災には対応できない。そして、避難所も足りないし、医療提供体制も足りない。それらを生き延びたとしても、食料が足りない、エネルギーが足りない等々、命の危機が繰り返し繰り返し襲ってくる。
首都直下地震から、首都を守るためにはどうすればいいかというと、最終的な結論が、東京一極集中を是正するしかないということでありました。
私は、一週間のこのテレビ放送を、ほとんど見ていませんでしたが、最後の結論のところだけはちょうど見ていまして、ああそうかと。
東京一極集中の是正というのは、これは地方のためというよりも、今東京に住んでいる人たち、これから東京に住む人たちのこの命を守るためにこそ、東京一極集中の是正というのをしなければならないのだなと思いました。
2.危機管理を起点とした社会づくり
そもそも何のために、自治体、或いは共同体、共同体というのは、自治体から国家、或いはさらに進んで国際社会と様々な共同体があるわけですけれども、そもそも、共同体というものが作られる原点には、危機管理ということがあると考えます。
そもそも個人の生き方、というところで考えても、いざという時生き延びられるような生き方をしていかなければならないということで、その時参考になるのが、戦国時代から江戸時代の初めにかけて、日本で宮本武蔵とか、柳生宗矩はじめ柳生一族とか、それぞれと知り合いだった沢庵和尚とか。剣の道からさらに兵法という言葉も彼らは使うのですけれども、戦国時代を経験した、当時の日本人がそういう中で生き延びるためにはどうすればいいのか。宮本武蔵などは、最強を目指す、天下無双、日本で一番強い、そういう剣の道を究めようとしていたわけですけれども、宮本武蔵や柳生一族、沢庵和尚など、当時の成功した人たちの間で共通するのは、やはり敵を作らないことが大事だと。負ける戦いはしないというのが、必勝の、究極の戦略なわけですけれども、そもそも戦わなくて済むようにするということです。それがこの不敗、決して負けない、イコールそれが無敵ということであろうと、それが最強であり、天下無双ということだということで、敵を作らない、プラス、味方を増やすということです。敵を作らないようにしても、言いがかりで急に、襲ってくる人がいるかもしれません。
そういう時でも、自分だけで対応できれば良いのですが、常に自分一人で対応できることはないので、味方を増やしていかなければならない。そして味方も、ただ人数がいればいいというわけではなくて、去年流行った言葉を使えば、ワンチームです。味方がちゃんと一つの集団として、一つの共同体として、きちんと、自由自在に動くことができるようになる。そうなっていくと、より、生き延びることができる。
個人一人一人もそうですし、そうやって作った集団、共同体というものも、生き延びていくことができるということで、そうやって、戦国時代から江戸時代にかけて日本で発達した、剣の道、兵法というものは、統治の道としての武士道として形を作っていくわけです。
それから、私が知事になって間もない頃に、役重真喜子さんの『ヨメより先に牛(ベコ)がきた』という本を読む機会がありました。
農林水産省を辞めて、東和町、今の花巻市内の東和町ですけれども、そこの農家にお嫁にきた役重真喜子さん。東和町での生活で、都会の生活に比べると、お互いの生活、日々の暮らし、濃密な人間関係の中で、みんな暮らしているということに、当初、違和感を覚えるわけです。
それぞれの、家族が家の中で、どういうことをしているのかということを、近所同士、お互い知っている。どこかの家で誰かが何かをすると、そのことがたちまち近所中から、さらには、東和町内広く村中町中に知れ渡るような、そういう濃密な近所付き合い、共同体のコミュニケーションというものに、当初違和感を感じていたのだそうですけれども、役重真喜子さんが、様々大きな病気をしたり、あとは交通事故というか、車に乗って崖から落ちてけがをしたりとか、そういう病気やけがをしたときに、近所の人たちがすぐに助けてくれて、そして、お宅の農作業はこの辺まで進んでたから、そこから先はうちがやってあげようとか、お宅の家族は、こういうケアが必要だからそこは私がやってあげようとか、たちまちこの助け合う、そういうケアが、地域の共同体として行われるという経験をいくつかすることで、役重真喜子さんは、なるほど、共同体というのは、この危機管理のためにあるんだなと悟ったということであります。
いざというときに、助け合う、そのために普段から、この都会の感覚からすると、お互いのプライバシーを踏み越え合って、近所付き合いをしているような格好ですけれども、普段からそのくらい情報共有し、いろんな農作業や地域の仕事を一緒にやるという経験を積み重ねておかないと、いざというときに困る、助け合うことができないということなのです。
そもそも、自治の原点は、私は、防火、防災、相互扶助にあるということが言えると思います。
人間一人でやっていけるなら、或いは一つの家族一つの世帯だけで、自由自在、勝手気ままにやっていけるなら、その方がいいのかもしれませんが、全知全能ならざる人間というのは、そういうわけにはいきませんので、いつか困ったことが起きる、助けが必要になる。
農作業とかをやってれば、農業に従事していたりすれば、もう日頃の生産活動から、力を合わせて手伝い合ってやっていかないと、日常的な生産活動もできないということもあります。
自助、共助、公助という言葉があります。これは、防災の分野で広まっていて、或いは防災の分野で確立した言葉だと思いますけれども、この共同体の成り立ち、自治の発展ということについても、この、自助、共助、公助ということで、説明できると思います。
この点、社会契約論というのがあるのですけれども、なぜ公、国家というものが必要かという話で、フランス革命のちょっと前ですね、それはアメリカ独立革命のちょっと前ということですが、ルソーとかモンテスキューとか、そういう人たちが、議論して流行らせた考え方ですけれども、あの頃、公というものがないと、その万人の万人に対する闘争というのが起きる、ということが議論されていたんです。すべての人たちが、自分以外の、周りはみんな敵だみたいになる、いつ物を盗まれるかわからないとか、いつ攻撃を受けるかわからない。そういう万人の万人に対する闘争という中で、強力な力で秩序を守り、ルールを決めてそのルールに反する人を罰することができる力、そういう公で、当時であればそれは国家というもので、国家というのはそういうものだと。
当時は、王政、王様が勝手気ままに税金を増やしたり、勝手気ままに他国と戦争したり、そういうのをやらせないで、国家というのはそもそもこの万人の万人に対する闘争というのを防ぐためにあるのだから、そういう社会の成員が、安心して自分がやりたいことを自由にやっていくことができるように、国家、国というのはそういうふうにしていかなければならない。
だから、憲法を作って議会を中心にして、民主主義的にものを決め、それに反する人を国として、取り締まることができるようにしようという議論があったわけですけれども、実際に国というのが出来ていくプロセスの実態を考えると、ムラからクニへという言葉が、日本史で中学生や高校生が習う日本史にムラからクニへという言葉が出てきますけれども、村落共同体という、農業中心に、日本の縄文時代だと、狩猟採集もあったわけですけれども、食べていけるような共同作業をしていくということを中心にして、共同体ができて、それが大きくなっていって、或いは他の村落共同体と合わさっていって、国というような体制になり、やがてそれが国家になっていくという、そういうことの方が実態なんだと思います。
つまり、共同体の原点というのは、人間が一人一人バラバラでいると、競争し合い、そして闘争し合うから共同体があるわけではなく、逆に、助け合いの中から共同体というものは生まれてくるわけで、人間というのは普通に自然にしていると、まず助け合うところから、人間というのは、その生き方が出来てきて、共同体ができて、村、町、国と発展していくと。自助、共助、公助と自治が発展して、国家というところまでいくし、そういう国家間の協力まで視野に入れると、国際社会というものができていくということが実態であろうと思われるわけです。
というわけで、共同体のあり方、イコール現代日本における自治体のあり方、視野を最大広げると、日本という国のあり方を今こう考えるにあたっては、いざという時に生き延びられるという、危機管理を原点にして、もう一度考え直す必要があるのだと思います。
3.いざという時に生き延びられる共同体の在り方
基本になるのは、農林水産業と、居住インフラで、自然災害に遭いにくい場所に住み、食料を調達できるようにして、まず薪のようなものから始め、燃料、エネルギーも調達できるようにするというところから共同体は始まって、やがてそれが発展していくと、第二次産業第三次産業、燃料も石炭とか石油とかも使うようになったり、ものづくりも自給自足、自分が使う道具を作るだけではなくて、他に売って稼ぐためのものづくりというものが出てきて、そして、物を売って歩くサービス業、それにまつわる情報を取り扱う仕事とか、また、運輸運送の仕事とか、そういうのが出てきて、第二次産業第三次産業、また、交通通信インフラが必要となり、作られていく。そこで村から、町、国という単位に発展していくということだと思います。
ここで一つ私が持ってる本から一節を読んで紹介しようと思います。この本は、10年ちょっと前に、盛岡市内の古本屋さんから買ったものなのですが、どのくらい古い本かというと、昭和4年に発行された本です。昭和4年だから1929年ということになります。『都会と田舎』という本で、日本児童文庫、日本児童文庫のシリーズの一つとして書かれた『都会と田舎』。書いた人は、小田内通敏、秋田市出身ということで、小田内、東北っぽい名前ですよね。小田内通敏、肩書きが内閣人口食糧問題調査会嘱託、早稲田及び慶應義塾大学講師である小田内通敏さんが書いたものなのですけれども、日本児童文庫と言いつつ、現代の新書版ぐらいのレベルはあると思います。そして、この人の本で今から紹介するところが、共同体というものが始まっていく原点、まず、農業で食べていける、そして、災害から身を守りながら暮らしていける、そういう家を建てるというところから話が始まるんですけれども、こういうふうに書いてあります。
「私たちは旅行の先々で、山の麓や谷の底や野の中や岬の先などで、思いがけないところに寂しげに立っている一軒家を見いだすことがある。都会に住んでいる人たちはもちろん、田舎に住まっている人たちでも、こんな一軒家を見ると、よくもこんな寂しいところに暮らしているものだと思うであろう」と、昭和4年の段階でこういうことが書かれて、現代の岩手県でも、そういう一軒家に遭遇することはよくあるのですが、続きを読みますと、「しかし、こんな寂しいところにある一軒家も、決して独りぼっちで暮らしてゆけるものではない。この一軒家から何町か離れたところには、必ず2,3軒か、また5,6軒集まっている部落か、または10数軒か、数十軒かの部落があって、その一軒家から、この部落に始終用足しに往来するようになっている。その間には決まって細い小道が通じているのを見るであろう。このような一軒家は、その家の建て方は極めて粗末ではあるが、周りには狭くても、農作物を干す場所があり、日々の副食物にする野菜を作る畑もある。また年中強い風の吹いてくる方角には、これを防ぐため、宅地の周りに生け垣とか竹やぶとか作られてある。清い谷川に近いところでは、これを飲み水としているので、井戸もない。そして主人達は毎日田畑に、また、海に近いところでは時々漁にも出かけ、着物のほかはすべて自分たちの手で作り、年中安らかな生活が営まれてゆく。子供も小さいうちから母親におんぶして、野良仕事に連れてゆかれ、いつかしらに、大きな自然の生きた姿がわかるようになる」という、これが共同体の原点であり、また個人の生き延びるための個人の生き方の原点というふうに言っていいと思います。
あと、この人は、二宮尊徳、二宮金次郎の『百姓伝記』という本から引用して、そこのところを私が孫引きして読みますけれども、「百姓が屋敷を構え、家を建てるには、第一、その田畑の近くに屋敷取りをしなければならない。屋敷構えは北西の方角が高く、東南の方が低い、日当たりの良いところを選ばなければならない。百姓の家は年中干しものが多いから、東南の方が広く開いていなければならない。家づくりは、武家や町人などのように材木を細く綺麗にするよりも、大風や地震にも耐えるように頑丈に作るのが肝心である」、と地震のことにも言及されてるんですね。「屋敷周りの植え込みは西北の方に冬木を植えておくと、風を防ぐ頼りにもなれば、温かくもある。東南には冬木を植えると、日陰が多くなるからよくない。また屋敷構えに、西北は高く東南を低くするのは、屋敷に日が当たらぬと、日差しが遅く住まいが寒く、すべて費えが多い。百姓は耕作に使う農具が多く、手入れが悪いと自然に腐ったりするようになるから、内庭には掛けどころや上げどころをこしらえておくがよい。大きな川に近いところや、谷の淵に近いところでは、どうかすると、思いのほかの押し水があるから、屋敷構えに気をつけなければならない」、ということで、この洪水にも気をつけようということは書いているんです。という感じで話が続いていくわけでありますけれども、ともすれば、今紹介したような、生活のあり方、また、生業のあり方というのを、それに反するような家づくりとか街づくりとか、そういうものが現在横行してるところがあるかと思うのですけれども、やはり、住まい、街、大きく出ると広く、県土また国土というものは、今話したようなきちっと食べていくことができるということと、災害から身を守るということ、そこに立脚して作っていかなければならないということが、改めてよく分かるのではないかと思います。
話を元に戻して、農林水産業、居住インフラという基本をベースにしながら、第二次第三次産業、交通、通信インフラと発展させていく共同体のさらにその先には、文化という段階にまで達して、それはもともとの原点、基本である、生活、衣食住をより良い、美的に快適にしていくという土台への回帰というところもありますし、また共同体として、当初は原始的な、お祈りとかお祭りとか、やっていたのを、さらにより楽しい共通の活動というものを共同体で作り上げていく、そういう段階にさらに進んでいくと思います。
以上の段階を通じて必要なものとして、教育、医療福祉、防火・防災、警察、そして防衛。共同体と共同体の争いが、戦いにまで至るというのは、ムラからクニへという歴史、邪馬台国ができるころの時代のムラからクニへ、決してそれぞれが平和だけでやっていたわけではなくて、共同体同士の戦いも起きるので、防衛も必要になってきて、それで今ある諸国、国々も防衛の機能を持っているわけですけれども、そういった教育から防衛までのいろんな機能が共同体をより良くすることに必要だと思います。
4.幸福保障で強化される持続可能な共同体
そういう共同体を、まずは危機管理という原点にきちんと根差すようにしつつ、それがギスギスしないようにする、あんまり危機に備えるということだけで暮らしていると、やはりギスギスしてきますから、共同体の暮らし、共同体のあり方を豊かにしていく、そういう工夫も必要で、そこが、この幸福ということを一緒に目指すことができるかというのが、一つの大きな要素になるのではないかと思います。
共同体が、まさにワンチーム、共同体として機能していくためには、一蓮托生、死ぬも生きるも一緒というぐらいの共同体意識があるといいわけですけれども、これは、いざというときに助け合いが必要、危機管理にともに対応しなければということ、プラスみんなで幸せになろうという感覚、お互いの安全を保障する、プラス幸福も保障し合うという、そういう感覚を持つことで、この共同体というのが、持続可能なものとして強くなっていくのだと思います。
幸福論の時に何度も言ってますけれども、アメリカ独立宣言に、生命、自由、幸福の追求の権利と出てきて、それは日本国憲法の13条にも書かれていて、基本的人権を一言で言えば、生命、自由、幸福追求の権利、ということでもあるわけですが、自由ということを挟んで、命を守るということと、そして幸福を追求するということ、共同体の存在意義というのは、そこにあるということです。その中でお互いの自由を保障し合う。生命を保障し合う、つまり安全を保障し合う。そしてその上に、自由も保障し合って、そのゆく先として、幸福の追求を保障し合う。幸福の保障と幸福の追求の保障というのは、厳密には区別できるんですけれども、ただ、実態として実質的に、この、幸福という結果をお互い保障し合いましょうというふうに構えないと、機会だけ、チャンスだけ保障し、その先幸福になれるかどうかは知ったことではないみたいな構えでいると、結局その幸福を追求するチャンスや機会も保障できなくなってしまう。幸福を追求する機会を保障しよう、幸福を追求できるようにしようというふうに、お互い意識すると、当然、ちゃんと幸福に向かって進んでいるかなと、幸福度を高めているかなと、幸福になっているかなというふうに見ていかないと、現実的には先に進んでいかないので、実際、共同体を運営していくにあたっては、幸福追求の保障ということと、幸福の保障というものを区別することにはあまり意義がないと考えます。幸福を保障するんだというふうに構えないと、幸福追求権の保障は、実質的にはできないんじゃないかということです。
ということで、岩手県として、「いわて県民計画2019-2028」で、県として、県民一人一人が幸福を追求できるようになるイコール県民一人一人の幸福度が高まっていくようになる、そういうことができる県にし、また県の行政も、それを目標にしてやっていくという形を作って、かつ、実際県の事務の執行を、共同体の構成員、県民一人一人の幸福を目的にしながら進んでいくような体制を私たちは作り上げたわけですけれども、それは、この危機を希望にと言って、岩手が直面する危機というのを意識してやってきた前の県民計画の時と違うことをやっているわけではなく、言わば、危機を希望にという、危機管理に重点を置いて、全体にとってまた岩手県民一人一人にとって、危ないことはないか、危機に直面してないか、経済情勢はどうか、雇用情勢はどうか、医療体制はどうか、そして災害、自然災害への備え、また、自然災害が起きた後の対応はどうかということに、最大限気を配ってやってきた、前いわて県民計画のやり方にプラスアルファして、幸福という要素を加えて、そして、より共同体として力が出せる、良い結果を出していける、そういう県政の進め方に、私たちはしているんだと考えてもらうと良いと思います。
5.大都市問題とあるべき日本の姿
自治のあり方とか、共同体のあり方、ひいてはそれは国のあり方ということにも繋がるのですけれども、この田舎の一軒家というところを原点にして考えていくと、あるべき姿が自ずと見えてくるわけで、問題なのは大都市のあり方なんです。田舎の正反対の都会、しかも、大がつくような大都市というものが、冒頭に話したように、実はもう命が幾つあっても足りないような、危険な状態になっていると。何のための共同体なのか、ということが問われるのだと思います。
自助、共助、公助という、発展の仕方というのは、この地方においては分かりやすい。さっき言ったような一軒家というのは、実際、岩手県内にありますから。そしてそういう一軒家を含む集落も実際あって、そういう集落が集まって市町村があり、何かあったらまず自分の家で対応し、それで間に合わなければ集落として対応し、間に合わない時には町として、警察、町としての消防が出動とか、さらに、県として警察、自衛隊にお願いして、国の出動、自衛隊の出動というふうに、どんどん高めていくということができるわけですけれども、大都市の場合、自助が強調されすぎて、共助が機能しにくくなっていると思います。
自助を強調しすぎてるというのは、言い換えると自己責任を強調しすぎてるということですけれども、やはり都市、特に大都市というのは自己責任の世界になっていて、それが平時においては、自由も勝手気ままというくらいの自由が得られるのが、都市、特に大都市なのですが、平時は便利なのですけれども、いざという時の、近所の共同体とか、そういう共助の部分が弱いし、その共助の部分が弱いと、いきなり公助でとか、国とかの支援が発動したとしてもそれがなかなか個人にきちっと届かなくなるわけですよ。
そもそも、平時は便利と言いましたけれども、お金がないととても不便です。都会暮らしというのは、お金があれば非常に便利なのですけれども、お金がないと都会の生活というのは、決して便利ではないということは、実感として分かるのではないかと思います。お金がない人に対しては、都会というのはやはり非人道的といいますか、厳しい世界であります。
それは、もともと都市が形成されるというのは、行政府が核になる城下町とか、或いは首都の都とか、そういう行政府が核となったり、或いは工場のような生産の場が核になったり、港交通の要衝が核になる場合もあります。門前町、お寺とか神社とかを核にする場合もありますが、そこに人が集まってくるのは、そこで働いて稼ぐ、物を売って生業とするという形で人が集まってきて、やはりお金がその町の掟となるわけです。そもそもお金を稼ぐためにそこに人が集まるわけで、どういうところで働く、どういうところに住み、そして何を消費しどういう生活をするかというのは、何でもお金で決まってしまう。それはどういう学校で教育を受けるかとか、病気になった時どういう医者、病院にかかるかとかというのも、結局お金で決まってしまうようになってくるわけなので、それで都会というものは、お金があるととても便利だけれど、お金がないと非常に不便ということになるのです。
そのお金の論理というのは、いざという時、助け合う危機管理を原点にした一蓮托生という共同体意識から積み重ねていく、田舎に典型的に見ることができる共同体形成の論理ではなくて、そういうお金を中心とした、個人的な事情とか、或いはお金については欲望という言葉を使ってもいいと思うのですけど、欲望に基づいて人が集まり、街が形成されていきますので、そこは、自然災害とか、危機に対して、必然的に脆弱になるということです。
したがって、脆弱な今の日本の首都圏を強くして、そこでちゃんと人が生き残り、人間らしく生きていけるようにするには、大々的な地方への分散が必要になってくるということだと思います。
脆弱な地域社会を守るために、公権力を強くする、共助が圧倒的に弱い部分に公助を強くするということが、都会では起きるわけですけれども、やはり共助の部分の、中間団体が弱い中で東京であれば都、或いは国が直接乗り出すというようなやり方では、なかなかいざというとき人を助けることが難しいというのが、NHKの首都直下地震スペシャルで明らかにされたことだと思います。
手っ取り早いのは、首都移転でありまして、国会の決議がありますので首都移転に関しては、20年くらい前でしょうか、日本として首都移転をやろうということを大体決めていて、それをしないとは決めていないはずなので、その後、財政問題、国の財政危機とか、お金がないという理由で、首都移転については語られなくなっている、実態として語られなくなってはいるのですけれども、やらないと決めたわけではありませんので、本気で東京一極集中是正を考えれば、改めて首都移転というのは現実的でシリアスなテーマになると思います。
20年くらい前に、移転するなら北の方というのが大体決めてあって、那須高原とか、阿武隈地域とか、栃木・福島の辺りが有力なんですけれども、台風19号でも、その辺は非常に大きな被害を受けていて、交通もより便利になってるので、もちろん北のほうに首都を移して、宮城、岩手とかが選択肢になってくるわけですけれども、そういう首都移転ということが、シリアスな論点になるわけです。
あとは、首都の機能を移転するとか、特に大学の移転です。定員を首都圏で制限するというところまではやっているのですけれども、世界の中で、東京は大学が多すぎると言われています。全部東京以外に移してもいいくらいではないかと思います。
本社移転は、なるべくそうしましょうということを政府も音頭とっていますけれども、より大々的にやらなければ駄目だと思います。
分散型国土再開発が必要な局面なのですが、ただこれは強制的にやるというよりは、それぞれが真剣に考えた末、首都直下地震があったとき、東京は今のままだと、命が幾つあっても足りないということを真剣に考えれば、首都移転ということもシリアスな論点になるし、大学移転ということもそれぞれの大学が本気で考えれば、いざというときに、炎に包まれる危険性を冒して、今のままやっていていいのかという、よりリスクの低い方に移っていかなければならないのではないかと、できれば自主的にそのように、この分散型国土再開発が起きていけばいいわけですけれども、少なくともそうした方がいいということは、岩手から盛んに発信することができるし、した方がいいのではないかと思います。
地方自治体が共同で国家機能を担う例として、大規模災害担当人材を形式的にプールしていこうということに今なっています。総務省が、いざという時、日本のどこかで大規模災害があった時、そこに駆けつけられるような人材を、普段は全国の地方自治体がそこで雇って、働いてもらっていて、給料は総務省が負担するというふうになると期待していますけれども、そのような形で、国が果たすべき機能を地方に分散していくということは、やはり必要に迫られて、どんどん出てくるのだと思います。
最後に、SFの話ですけど、『首都消失』という小松左京さんのSF小説があり、映画にもなりましたが、東京が突然黒い雲に覆われて、中に入れないし、中からも出てこられない。東京が物理的にも孤立し、或いは日本全体からすると無くなったような状態になるのです。その時、どうするかというと、これは当然、全国知事会が、臨時国政代行会議という臨時政府を樹立して、全国知事会が国家機能を果たしていくようになるのです。
ですから、首都直下地震で本当に東京が壊滅し、国の機能が失われるような事態になれば、その時こそ、全国知事会が地方から、国がやるべきようなことも地方の集まりが決めてやっていくということが必要に迫られて行われるようになるという、そういう思考実験のSF小説があるのですけれども、結構事の本質をついているお話だと思います。
危機管理ということを原点に置きながら、幸福保障ということを本気で目指していく。そういう共同体こそが生き延びることができるし、生き延びられないところがボロボロになっていった暁には、生き延びられる力を持った共同体が、お互い協力し合って、世の中を動かしていくようになるだろうと思います。
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